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第8G第2チーム報告②

5月31日
私は復興支援活動で福島県に入った。3月11日の東北地方太平洋沖地震以来、ニュースで「福島」の言葉を聞かない日はない。

8g2_2_a写真は福島駅から見た福島市内である。津波被害と原発事故で地震による影響はそんなに伝えられていないが、ここも震度5の大きな揺れがあり、被災地なのである。しかし3ヶ月近く経過していることもあり、大きな被害があったようには見えない。街中は普段通りの生活をし、学校に行き会社に行き、普通にコンビニに商品があって笑顔があった。
ベースキャンプに到着した日は、九州ブロック(大分・佐賀・熊本)の方と顔合わせを行い、前任者から引継ぎと注意事項を確認し終了した。私たちは津波被害と原発被害のあった浪江町の方々が避難されている場所で活動するよう指示を受けた。

6月1

初日は9時から活動開始した。写真は私たちが活動拠点にする二本松市内の建設技術学院(今は使われていない専門学校)である。

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中はすべて支援物資であり、この支援物資をほかの倉庫からこの場所へ移動するということが主な活動内容であった。物資としては米(10キロ)・水・ジュース・飴・缶詰である。

この活動には東京電力職員の人も参加されており、業務命令とはいえ被災者でありながら原発のこともあり、とても肩身が狭そうに作業していた。現地の人もとても厳しい目で東京電力の方をみていたのは事実であるが、その中でも必死に積極的に住民のために作業をしていたのはとても印象的であった。

午後からは二本松市の現在廃校の針道小学校に行くことができた。ここでは浪江町の津波で流された遺留品や写真等を洗って、被災者に返すという作業をしていた。全て手作業で時間と労力が非常にかかる作業であるが、支援者は「被災者のために」と頑張っていた。

写真を見ていただければわかるが、言葉もでない。現実を目の当たりにし、胸が苦しかったとだけ報告させていただく。

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午後から津波被害のあった「南相馬市」に連れていっていただいた。途中で美味しいとんかつ屋さんがあり、良い気分転換になった。

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このとんかつ屋は海岸から6キロ地点であり、目立った被害はなかった。目立つのは自衛隊の車両やトラックぐらいだったが、それを見るだけでも現場が近いこ とを感じることができた。

8g2_2_iそして海岸から4km地点で「ここを曲がったら被害状況が分かるよ」とドライバーさんに言われ、曲がると異様な光景が広がってお り、震災当日リアルタイムで映像を見ていたが、実際に現地に行くと全く雰囲気が違い、津波にこれほどの力があることに愕然とする他なかった。

ここには民家と田んぼがあった場所

ここには民家と田んぼがあった場所

空想世界にいるようだった

空想世界にいるようだった

これが南相馬市の現実だと思い知らされた。多くの物が流され、多くの人が流され、そして多くの涙が流れた場所だということを。マグニチュード9.0の大地震、数十メートルの津波、原発事故。人間として日本人として、そして消防職員としてこの災害を決して忘れてはいけないと心の底から感じた。

この復興支援活動を通して一番感じたことは人とのつながりだ。住民・消防団・役場・社協・警察・海保・病院・赤十字社・医師会、名前を挙げればきりがないが、みんなつながっている。お互いに助け合っていかなければ生命・身体・財産を守ることができないと改めて痛感させられる活動であった。今後消防として、防災マップの見直しや警防計画の見直し、防災訓練の充実、行政と企業との支援協定の確認など、私たち一人一人が何をすればいいのか今一度考えるきっかけを与えられたのだと感じた。

1995年の阪神・淡路大震災から16年、その教訓から緊急消防援助隊が構築された。私の住んでいる沖縄県は360度海に面しており、隣接する県がない。地震があり、十数メートルの津波が襲えば仙台空港のように那覇空港は使えなくなり、船から緊急援助隊が来るのも、余震とさらなる津波の影響で生存限界の目安となる72時間以内に到着するのは困難を極めるだろう。地域の実情に合わせたシステムがづくりが急務であり、それらを協議会から発信してもいいのではないのかと考えさせられる復興支援活動であった

島尻消防職員協議会
瑞慶覧 長太

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